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9.23 by 宮本雄史

仕事を終え自宅で地上波をぼんやりと眺めていた。どうやらスマートフォンからの情報では前頭葉が使われず、結果として記憶の定着が弱くなるらしい。

 

若害のトレンドはコスパ(cost performance)からタイパ(time performance)へ移行し秒単位で情報を貪っている。消費者目線ではこれらは結果に対し伴われる『感想』で留め、『目的』にシフトしてはならない。法人でなく個人が成果に対して投資するかの様な態度は単なる『おままごと』の延長にあることを、前頭葉をよく動かして覚えておいて欲しい。

費用対効果と時間対効果を高めて産まれるのが、あいも変わらず排泄物とクソコメだけなのだから、安心して消費者に徹底すれば良いのだ。

 

ネットの速度向上、サービスの多様化によって広がったかのように見える世界だが、我々は用途と扇動によって限定的なネットワークに押し込まれている。

多数と繋がれるツールを必要以上に有難がり、シェアを更に広げる事で相互監視社会を増長させている。実社会では対多数を望まない人間さえもその速度と情報量によって居場所を制限される状況と言えよう。情報の超過供給に対する受け皿が存在せず、実社会との乖離が加速している。(オンラインサロンや会員限定コミュニティ等も認知しているが個人発信のものは宗教的で非常に気色悪く感じるのと1対複数人の構図が不変であるためここでは扱わない)

 

この問題は本来個人差が生まれるはずの言語力が大きな力を持ってしまうことだ。身振り、手振り、表情といった他の表現が軽視され、言語力を用いた一種の選民思想が行われようとしている。頭が悪く、口が達者なだけの人間が、対人であれば起こり得ない勘違いを生み続ける。いよいよ、馬鹿につける薬はなくなってしまった。

 

俺達のような人間が出入りするライブハウスに於いては限定的にではあるが、言語力が重要視されず、演奏者や客席の態度でコミュニケーションが取れる場合も少なくはない。上手く言葉が書けないから楽器を持ち、表現する。見て良くなければ座り込み、帰ればいい。結果としてではあるが優位性がなくなる瞬間がある。俺はそれが好きなわけではないが、心地は良いと思う。

 

コロナ禍で一斉に行われた小規模ライブハウスによる配信ライブ。金銭的な事情や集団感染により槍玉に挙げられた事情もあるが、俺は懐疑的だった。少なくとも、自身の演奏をショウだと思い臨んだ事などなく、同規模のライブハウスでは他人の演奏を見てそう感じた事がないからだ。ほとんどの場合、表現は関与する人数が多い程、肉付きこそ良くなれども、その鮮度は失われていく。処女作のAV女優のように無駄に張り詰めたアーティストと、ご自慢のサウンドシステムを封印し安い機材で撮影に臨むクルー。過酷な雪山では同行者が亡くなっても置いていく。共倒れしては元も子もない。

 

9/23、AMALAのリリースツアーの京都編がある。いいメンツになったと思うが、正直来てみて判断してもらわないと分からない。どこまで感性に違いがあるのか分からないし、その反応を見て今後俺達がどう動くのかも分からない。できる限り必要ない嘘を吐きたくないから絶対楽しめるとも言わないし、ただ多くの人と笑い合って解散ができる日にしたいと思って静かに準備をしています。